私は不思議な気持ちでその情景を見ていた。お茶を飲んでいる問、二人は何一つ話をしないのである。夫婦は長年一緒に暮らしているのだから今さら話さなくても分かり合えるということなのか。それとも話題が見つからなかったのか。私たち夫婦は話し過ぎておかしいのかとも考えてみた。この夫婦は服装などから見ると、近所に住んでいて、何となくお天気もよいし、二人で散歩に出たという感じであった。要を家においてゴルフに行く人もある。ゴルフでなくとも、一人で本屋などに行って、帰りに喫茶店に立ち寄っている人も沢山いる。だからこの黙っている夫婦は、一緒に出かけているだけでもずっと幸せな方と言えるだろう。この黙っている夫婦は、家に帰ったら、もう少し話すのであろうか。いや、あの雰囲気では、急に何かを楽し気に話すというこ人ではないように見える。私たちのようにおしゃべり夫婦に対して、「しゃべっているから仲がいいとはいえないでしょう」とか「黙っていても、相手の気持ちを察することができるのが夫婦です」と言われるかもしれない。今の五十歳代、六十歳代の夫婦は、昔風の教育を受けているから、他人の前でベタベタしたり、話をしたりするのは、はしたないと考えているのかもしれない。また、急に話をしろと言われても無理だし、話をしようとすること自体が疲れると言われるかもしれない。けれども、今、五十歳代ということは、平均寿命からいつでもあと三十年ぐらい一緒に暮らすかもしれないのである。しかも、これからますます二人だけでいる時間が長くなる。子供は巣立って別に一家を構え、孫も滅多に訪ねてこない。友人も何人かはいるかもしれないが、アプリ 出会い系 で毎日のように会って一絡に何かをして楽しむことはできないだろう。努力をしたり、無理して話そうとするのは疲れると思っても、今から、そういう習慣をつけておかなくては、年をとってから急に夫婦で話しましょうと言い出してもできない。老いて楽しい話ができるように、今からお互いに話し合うよう心掛けようではありませんか。会話のきっかけは、今日の感動から月一回の近所の読話会に出た日のことである。その日は、藤原てい著『流れる星は生きている』を取り上げた。戦後の満洲からの引揚げの苦労話が内容であった。体験をしたことのない若い人も、親から聞いたという話をまじえてさまざまの意見が出たし、年配の人たちからは、戦中、戦後の苦労の話が次つぎに出たのです。

五十歳ぐらいのさんが、「私の子供時代の九州の田舎では、村の中を物乞いをする人が回ってくると、その家の主婦は、倹約してやっと一年を喰いつないでいるような状態でも、いやな顔をせずに両手一杯ぐらいの米とか豆を包んで渡しているのを見ました。昔の人たちには、貧しい人たちに対するやさしさがあったんですね」という話をした。同世代の人はそれぞれに思い出すことがあるらしく、うなずいていた。小さい子供を持つ母親たちは、今更に現代に生きる人たちのカサカサした自己中心的な考え方の恐ろしさを感じたのであろう、徴妙な表情で黙って話を聞いていた。誰の心にも、その話は深くしみこんで、藤原ていさんの本の内容と共に、心に残って家に帰ったようだつた。夜になって夫が帰宅したとき、私は食卓で一番にその話をした。「そうだね。僕も小さいときのことを思い出すよ。僕の家は下町の印刷屋だったから、客も多かったので、残飯も多かったんだ。母がそれを失敗した印刷の紙の裂の白い方を内側にして包んだり、火鉢に残ったたばこの吸いがらも別に包んで、夜になると裂のごみ箱のふたの上に、そっとおいていたよ。少しして見に行くと、いつの間にか失くなっていたのを覚えているなあ」夫はそう言って、母親のことを思い出しながら、そのようなやさしい気持ちの交流のあった昔をしばし懐かしんでいた。これは私の場合だけでなく、恐らく、その日、読書会に出た人は、少なからぬショックや感動をもってその話を思い出し、家族の誰かに話したくなったろう。同世代の夫が最も分かってくれて、もしかしたら、話がはずんだかもしれない。夫婦なのだから、いつも話をしていなくてはいけないとは思わないが、二人で共感しあえる体験やら、どこかから得た情報があれば、自然に会話がはずむのではないだろうか。会話がはずむということは精神が生き生きとしている証拠である。感動する心を大切にしていきたいものである。夫と愉しむ旅のコツ夫と七泊のイギリスの旅女どうし本音で話し合うと、子育てが一段落した後の夫婦だけの旅について、意見がいろいろ別れる。「定年になったら、二人で海外旅行をしよう」と、夫に言われて、それだけで感激する妻もあれば、「旅行中まで夫の身の回りの世話をしたくない。話題も合わないし、旅をするなら女友達としたい」という人も結構いる。旅をするゆとりもない夫婦から見れば、「行けるだけでありがたいと思わなくては」と言われるであろう。

私の場合、今年の夏、初めて夫とニ人だけで海外旅行に出た。海外は初めてだが、圏内では、一、二泊ぐらいの旅は、二人でよく行っているし、観劇や食事にもまめに出かけている。だから、今回の旅のために、心の用意をしなければという気持ちはなかった。その上、私の夫は、日頃から自分の身の回りのことは自分でしているし、海外旅行にも慣れている。今回は、二人ともに初めてのイギリスヘ行った。二人とも体調もまあまあであったし、旅行を通して盗難事件にも会わず、不愉快な事件も起こらなかった。特に夫の長年の念顕だったシュトラトフォードという町へ行き、シェークスピア劇を背ながらの舞台装位でみることができて、夫はもちろん、私にも忘れられない感動を残した。三百年も経っているという、感じのよい宿を見つけ、しっとりとした伝統のある町を歩き回り、古いイギリスを堪能した。その後、ロγドンに伺ってからも、ミュージカルを観たり、何軒か予定していたレストラγで夜の食事を楽しんだり、イギリス七泊の二人の旅は何とか無事に、よき思い出の旅になる形で終わった。二人の聞に何もいやなことは起こらなかった。仲よく旅行して、二人で行けてよかったとこ人とも思っている。少なくとも私はそう思っている。しかし、朝から晩まで、脆から朝まで二人一緒である。三日目頃に私は気がついた。私は夫にいつもと少し違う気を遣っているのではないのかしら。「あなたおなか空いていない?」「そうだね。でも、朝、結構食べたからね」「そうね。じゃ、もう少ししたら、サγドイツチでも食べない?」「うん。でも、もう少しましなものがいいけど、おなかが空いているならいつでもいいよ」「そんなに空いているわけではないから後でいいわ」という具合いである。もともと夫は、食べることに関心のない人である。だから私が遠慮して話していると、何度か昼時間が過ぎてしまい、一日中、半分空腹のような中途半端な状態だった。その上、英国の小さい町のレ九トラγは、二時過ぎには一ベん閉めてしまう。日本式のそばやもないし、喫茶店もほとんどないと言ってよい。おなかが空いてくれば、どんな人でも機嫌ょくできない。私は悲しい気持ちになることもあったが、夫の性格をよく分かっているつもりだから、そんなとき、なるべく機嫌よくするように心掛けている自分に気がついた。ところが、様子を見ていると、夫の方も私に気を遣っている。ほんのちょっとしたこと、たとえば、どこかに行った帰り道、店のショ1ウィド1に、興味のあるものが見えると、何となく私の足が鈍くなる。

私は夫がショッピγグに興味がないことを知っているから、なるべく素通りするようにしているつもりなのだが、夫は気がついてしまう。「好きなものがあるのなら買いなさい。待っているよ」と言ってくれる。しかし、女の買い物は、店に入ってパッと買うわけにはいかない。だから、そうやさしく言ってくれでも、私は、「買い物が旅の目的ではない」と、自分に言いきかせ、「いいの、いいの」と夫の申し出を断わる。旅を愉しむ四つの心掛けヨークという古い町を旅していたとき、私はどうしてもショッピング街に行ってみたくなった。列車に乗る前の一時間ほど、一人で、ショッピγグをすることに夫と話がついた。十一時半に公園のベンチのところで会うことにして、私は一人で歩き始めた。買い物ができるのでうれしいのだが、そればかりではなく、何かほっとするものもある。一人で店をのぞいて歩いていると、一時間はあっと言う問である。その上、ョくねっているし、よくよく計算しているつもりだったが、五分ほど遅れてしまった。夫はそういうことが大きらいなので、私は、まず謝り、さりげなく、他の話を始めた。夫はいつもと違って黙っている。私はそれに気付かないふりをして駅へ向かった。列車の中で昼食を済ませたら、夫も少しずつ話し始めた。自分で言うのもおかしいが、夫と私は、日頃から二人だけで楽しく話したりしているので、夫といることに慣れている。しかし、今回の旅で分かったことは、どんなに二人でいることに慣れていても、朝から夜まで、そして眠るときも一緒にいて、朝食も共にというこ人だけの旅のときは、時折、別行動をする時間をとることが大切のようである。何日かに一度は、半日だけでもそれぞれが自由行動をして時クの町は曲り刻を決めてホテルに落ちあう方がよいようだ。一人は早く帰って昼寝をするもよし、他の一人は、相手が特に興味のないところへこの機会に行ってみるとか。たとえ、衰の方が外国語に弱くとも、半日ぐらいは、一人で動けないはずはない。ちょっと心細くても、一人で官険してみるのが旅の醍醐味であろう。第二に、夫婦、それぞれ我債を言わないことである。洗躍をしたこともない夫も、先にホテルに帰ったら、自分のものだけでも洗うぐらいはした方がよい。妻を旅に連れて来ているという気持ちは、男性ができることは、妻の分もしてあげることと考えて欲しい。第三に、経済的な予算をざっと組んで、特に女性の楽しみであるショッピングに夫はロばしを出さないこと。

夫の買い物についても同様である。男性も、この際ゴルフの道具をなどと考えている人もあろう。第四に、愉しい思い出多い旅にしようと、お互いに心掛け、日頃は口にしたことのない甘い言葉もかけ合うようにしよう。相手を褒めながら旅をする心掛けが大切であると思う。そうすれば、どんな裂も、夫との旅が最高だときっと思うことであろう。旅行だけでなく、人生は旅である。「旅」という日常から離れたところで、お互いを尊重しあい、頼りあうくせをつけて、旅から帰った後も二人で過ごす時聞に慣れることが大切であろう。子供のいない夫婦に学ぶ夫と妻の聞に流れる甘いムード私の周りには、何組もの子供のいない夫婦がいる。どの夫婦も、結婚して何十年たっていても夫婦の問に何か甘いやさしいムlドがあって、私は会う度に、ハッとするような気持ちで反省させられる。夫の職場の同僚の中にもそういう夫婦が何組かいる。子さんは、お姑さんと一緒に暮らしていて、そちらの方の苦労もいろいろあるだろうに、こぼし話もさらりとしていて「困っちゃうのよね」と、若い娘さんが恥ずかしそうに話すようなムドがある。夫の帰りも遅い日が多くて本当に大変と言っているのに、大変さが感じられない。子供がいないから、夫の方も客を招きやすいのであろう。土眼目から日限日にかけて、若い人たちを家に述れてきて泊まりがけでマジャγをすることなどもあるという。「おにぎりとお茶だけ用意して寝てしまうの」と、口先ではすげなくしているように言うが、それをあまりいやがっている雰閤気はない。夫の方も、突然客を連れて帰っても、何とかしてくれるという姿の愛情に甘えている様子が見える。子供がいないということは、夫も妥に甘えやすいのだろうか。お互いに自分一人が独占しているところがある。妻の方も、そういう夫を、「因るのよね」と言いながら楽しんでいるのであろう。子供がいる家でも、こういう場合もないわけではないが、赤ん坊を育てている時代は、夫の方も客を連れて帰ることを遠慮するし、妻の方も子供を理由に、夫の突然の客を断わるのが当然であると思うところがある。子供だけに気を取られず、夫が実に甘えやすいような部分を見せなくてはいけないのだろう。もう一組のさん夫妻は、委の方も仕事を持っている。ある時、夫といっしょにさんの家に伺ったことがあった。当時、私の家では、娘がまだ小さくて、家の中も、こぎれいに片付いてはいなかったから、私は、さんのお宅のきわやかなたたずまいに心が洗われるようなすがすがしさを感じた。

墜には、小さな油絵を飾り、洋酒のぴんが並んだガラス戸棚はきれいに際かれ、急の訪問なのに、よく片付いた落ち着いた雰囲気の居間にすぐ通していただいたことを覚えている。お茶を出して下さった後、ご主人と私たちの傍らの椅子にかけて私たちの会話にさりげなく仲間入りをした。そして、夫の話を心から聞くように、いちいちうな.すいている。その表情が真剣で、まさに一対の夫婦という初い初いしさが感じられた。こういう場合、小さな子供がいると、夫の話を落ち着いて聞くわけにはいかない。子供の方に神経が働くから、妻の落ち着きが失われがちなものである。子供のいる家は、飾り気のない気安さはあるかもしれないが、子供のいない家には、情緒的なムドがあり、客がいるときでさえも、妻が夫への愛情を示すままごとのようなしぐさがあるように感じた。私が子育てに追われている時代だったからであるうか。さんの奥さんが、自分の夫の話を横に座ってうなずく姿に、私は夫婦の甘やいだものを感じた。二人の娘を育てながらの共働きで、めまぐるしい生活をしている私には、夫人が仕事を持っていても、部屋を飾る落ち着きと、夫へ向けるにこやかなまなざしと接し方に、大いに反省させられたことを覚えている。お互いへの気の鐙い方を見習う友人のさんは三十八歳、新聞記者である。夫婦の聞に子供はいない。夫も同業の新聞記者である。家庭部に籍のあるさんは、女性問題を中心に取材をし、時には出張もあるし、数日おきに夜中の十二時までの遅番がある。好きなように仕事をしている彼女の生き生きとした表情を見ていると、さぞや、夫は彼女のすべてを理解してくれているのであろうと思えるのだが、どうもそれだけではないようである。こんなに忙しい仕事をしていても、さんは夫に合わせて夫の実家にも一緒に行くことも多いらしい。鍋料理の話をすると、「夫が好きなの」と材料などを真面目にメモしている。夫の好きな競輪場にも、休日にはつき合うようにしているらしい。女性問題については、しっかりした考えを持ちつつ、実生活では柔軟な対応をしている細やかな姿勢を、子供を持つ妻と子供を持たない妻との徴妙な違いととるのは、私の怠識しすぎであろうか。夫といるといそいそとするとか、夫のために尽くすという考え方は、子供がいる、いないとは関係がないとは思う。しかし、子供のいない夫婦の方が愛情への努力をしているように見える。子供というクッションがないせいであろうか。